【過去の特別展】

【お陰様で好評の内に終了いたしました。】


 第111回企画展 「 経 典 」

平成17年6月15日(水)〜8月5日(金)

 大乗経典の代表ともいえる法華経を中心に、お経に描き出された仏の教えと信仰の姿を紹介します。
 古より、経典は人の手によって書き写され、伝えられ、広められてきました。そこには一語一句間違えず文字を書き写すという人間の地道な行為があり、仏の教えを信じる祈りにも似た思いが込められています。また、印刷の技術も8世紀末にはすでに日本で取り入れられていました。経典は「経」といわれる仏の教え、仏の教えを解釈したものである「論」、信者が守るべき戒律を記した「律」この三種の三蔵、その他注釈書などをあわせその数は5000巻以上(一切経)になるといいます。膨大な量の経典を印刷によって写すことも広く行われてきました。書きあげられ、あるいは刷りあげられた経典は仏そのものであり、経典の内容を表した経絵や手の込んだ装丁で美しく厳かに荘厳(飾ること)されているものも多くあります。手で写す、印刷する、方法は違っても、経典を写し、美しく飾ることは功徳(善の行為)であり、信仰心を表現する手段でもあったのです。
 数あるお経のなかで大乗経典の代表といえる法華経は、インドに成立しその後中国にわたりました。日本に伝えられたのは飛鳥時代といわれます。聖徳太子に重んじられたのをはじめとして、公私にわたり広く深く信仰されていきます。特に、天台法門を求めて唐に渡った最澄により比叡山延暦寺をして開かれた日本天台は、法華円宗とも呼ばれるように法華経を拠り所としています。生きとし生けるものは全て成仏できる、「大きな乗り物で皆で仏の道を目指そうという教え」とする法華経を宗派の根本経典として据えているのです。
 日光山輪王寺は天台宗のお寺です。各時代に奉納され使用されてきた法華経をはじめとする数多くの経典。そこに込められた人々の信仰の結晶をゆっくりご拝観ください。


展示品のご紹介

※ 出陳展示什宝は、予告なく変更する場合があります。
   

きんりごぞうきょう いえやすこうひゃくごじゅっかいき
禁裏御贈経 家康公百五十回忌
(輪王寺蔵)



ほっけにじゅうはちほんわか
法華二十八品和歌
(輪王寺蔵)


じげんだいしれいいきょうもんわかちょう
慈眼大師霊位経文和歌帖
(輪王寺蔵)



しほんぼくしょ からぼんもじ
紙本墨書 唐梵文字
(輪王寺蔵)
【重要文化財】




あおがいずりきょうばこ・きょうづくえ
青貝摺経箱・経机
(輪王寺蔵)
上記を含め、約60件の什宝を展示しております。
詳しくはお問い合せ下さい。 電話 0288−54−0531




コ川記念財団常設展示
ご あ い さ つ 

〜コ川記念財団 常設展示にあたって〜
コ川宗家 第十八代当主
(財)コ川記念財団   
理事長 コ 川 恒 孝
江戸幕府開府400年に当たる平成15年(2003)4月に、多くの方々から御支援を頂いて、財団法人コ川記念財団を設立いたしました。
 コ川宗家(将軍家)伝来の歴史資料を保存、管理するとともに調査研究し、公開することを目的として設立した財団の常設展示を、コ川家と関係の深い日光の地でできますことは、大変喜ばしく思います。
 季節ごとにテーマを決めて、日光山輪王寺宝物殿の所蔵品とともに、コ川記念財団の所蔵品を一堂に展示することで、江戸幕府にとって日光が果たした役割や意味を、改めて考えるきっかけとなれば幸いです。

 幕末の江戸城 
−将軍と夫人の生活−

 
 寛政前後(1790年代)から繰り返された北方ロシアからの脅威に続く西欧列強による外圧は、19世紀に入り次第に激化し、津々浦々に異国の船が出没、国内では天変地異・凶作が続くなど、華やかな文化・文政期(1804-1830年)の繁栄の背後では二世紀半に亘る天下泰平を支えた幕藩体制に翳りが生じ始めました。嘉永6年(1853)、ペリー提督率いる米国艦隊が浦賀に来航した直後に、家定公は十三代将軍に就任しました。内憂外患に直面する幕府は、家定公の正室が続けて二名、若くして病没したことから、雄藩・薩摩島津家から五摂家筆頭の近衛家の養女となった篤姫(天璋院)を後室として迎えました。
 攘夷を求められる天皇と、外国との戦争を避ける為に日米和親条約を締結した幕府との間に生じた諸問題山積の中に亡くなられた家定公の継嗣として、安政5年(1858)、紀州徳川家より家茂公が13歳で将軍職を継承しました。公武一和を基調とした挙国体制を築き上げるべく家茂公は、文久2年(1862)孝明天皇の皇妹和宮(静寛院宮)と結婚し、一橋徳川家当主慶喜を後見職に、越前松平家前当主慶永を政治総裁職に任じ、内外多難の政局を乗り切ろうとしましたが、第二次長州征伐のため三度目の上洛中、慶応2年(1866)大坂城で病没しました(享年21)。後を引き継ぎ十五代将軍となった慶喜公は翌慶応3年(1867)大政奉還を行い、最後の将軍となりました。
 戊辰戦争にあたり、天璋院、静寛院宮は徳川家の家名存続と、江戸を戦火から救うことに力を尽くされました。
 将軍の居城である江戸城の本丸御殿は、表・中奥・大奥の三つのブロックに分けられていました。表は公的な場であり、幕府の公式行事と役人が政務を執るところで、中奥は、将軍が日常的な政務を行う一方で私的生活を送る、公私の性格を合わせ持つ場でした。これに対して大奥は、将軍の御台所を中心に、側室や奥女中たちの生活する、完全に私的な、女性のみの空間でした。大奥と中奥は御錠口ではっきりと遮断され、将軍以外に男性は原則として入れませんでした。本丸の総建坪11,000坪の内、表と中奥を合わせて4,700坪、これに対して大奥は約6,300坪もあり、表向きの世界より圧倒的に広い面積を占め、独特の大奥文化を作り出していました。
 ここに展示されている将軍の画像や自筆書、天璋院、静寛院宮の化粧道具や装身具を通して、日本が困難に直面した激動の時代と、失われた大奥の生活の一端を感じて頂ければ幸いです


展 示 品 目 録
「徳川家定像」
「徳川家茂像」
家茂筆 「雲」
慶喜筆 「鬼神泣壮烈」
鏡建(黒塗葵牡丹紋散蒔絵) 天璋院所用
柄鏡・鏡巣(溜塗葵牡丹紋散蒔絵) 天璋院所用
鼈甲製かんざし  和宮所用

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