【過去の特別展】

【お陰様で好評の内に終了いたしました】


 第113回企画展 「輪王寺宮と日光」

平成17年10月7日(金)〜12月6日(水)

 輪王寺宮とは江戸時代、13代続いた日光山の皇族門主のことを指します。ではこの時代、なぜ皇族が日光山の住職となったのでしょうか。
 1617年(元和3)、徳川家康公が東照大権現として日光山に祀られました。中心となって遷葬を行ったのが当時輪王寺第53世貫主であった天海大僧正です。天海大僧正は自分が亡くなる時に5箇条の遺言を遺しました。その中に自分の後継者として親王を迎えるという、生前果たせなかった宿願もありました。皇子を後継者とする事で、天台宗を統括し、更には天台宗による日本宗教界の統括を図るという考えがあったからです。その遺志を受け継いだ第54世貫主公海は天海大僧正の築いた体制を堅持し、親王を迎える環境作りに尽力します。公海の後、第55世貫主として後水尾天皇第3皇子、守澄法親王が迎えられました。
 1655年(承応4)、朝廷より院宣をもって「輪王寺宮」の称号を与えられ、それ以降法親王が輪王寺住職の位につくという土台が作られました。歴代の輪王寺宮のほとんどが、天台座主(比叡山延暦寺)であると同時に日光山輪王寺を統括し、東叡山(上野寛永寺)に住していたので「三山管領宮」とも呼ばれました。
 明治への変革に揺れる幕末、第67世公現法親王が還俗して北白川家を継がれ、輪王寺最後の宮門跡となりました。
 1871(明治4)、神仏分離令が日光にも及び、「輪王寺」の称号は廃されました。神社から仏教色を取り除こうとする分離令の趣旨により、日光山はそれまでの一つの形態から寺院と神社に分けられました。その後の日光山衆徒は荒廃した日光山の復興に全力を尽くし、神仏分離によって一時廃止された「日光山輪王寺門跡」の称号も復活、現在に至っています。



展示品のご紹介

※ 出陳展示什宝は、予告なく変更する場合があります。



【重要文化財】
とうしょうごんげんぞう(れいむぞう)
東照権現像権現蔵(霊夢像)
(輪王寺蔵)

茶地紋服に頭巾を被った東照大権現(徳川家康公)像です。
 裏面に寛永20年(1643)12月28日の日付がみられます。




【重要文化財】
すみのえまきえすずりばこ
住ノ江蒔絵硯箱
(輪王寺蔵)

  新古今集の「住之江の浜の真砂をふむたつは久しきあとをとむるなりけれ」の
詩のデザインしています。蓋裏には「住之江」の文字が、蓋表には岸辺の鶴と
「久しきあと」の文字がそれぞれ描かれています。



しゅちょうほうしんのうず
守澄法親王像
(輪王寺蔵)

上記を含め、約60件の什宝を展示しております。
詳しくはお問い合せ下さい。 
電話 0288−54−0531
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コ川記念財団常設展示
ご あ い さ つ 

〜コ川記念財団 常設展示にあたって〜
コ川宗家 第十八代当主
(財)コ川記念財団   
理事長 コ 川 恒 孝
江戸幕府開府400年に当たる平成15年(2003)4月に、多くの方々から御支援を頂いて、財団法人コ川記念財団を設立いたしました。
 コ川宗家(将軍家)伝来の歴史資料を保存、管理するとともに調査研究し、公開することを目的として設立した財団の常設展示を、コ川家と関係の深い日光の地でできますことは、大変喜ばしく思います。
 季節ごとにテーマを決めて、日光山輪王寺宝物殿の所蔵品とともに、コ川記念財団の所蔵品を一堂に展示することで、江戸幕府にとって日光が果たした役割や意味を、改めて考えるきっかけとなれば幸いです。

 徳川家康公の文書と絵画 

  家康公の75年に亘る生涯は、日本が最も激動した時代でした。その幼少年期には、戦国武将たちが激しい戦闘の中で、中世の社会を打ちこわし、壮年期は、それまでになかった大きな統一への胎動が見られるようになりました。晩年期には、平和と安定とを心から願う全ての人々の強い心を受けて、日本に堅実な平和をもたらす組織をつくることが要求されました。こうした時代の大きな流れの中で、家康公は、常に移り変わる時代の流れに順応しつつ、人間の本質を深く洞察しながら、以降260余年続く天下泰平の世の礎を築かれました。
天文11年(1542)12月26日、三河岡崎城主松平広忠の長子として生まれた家康公は、6歳で織田氏に奪われて尾張に送られ、8歳で駿府(現静岡市)に移されて、以後永禄3年(1560)5月、19歳で桶狭間合戦に出陣するまでの間、今川氏の膝下に成長しました。幼少年期の手習いに関する確実な遺墨は伝来しておらず、家康公の文書で最も年代の早い例は公が15歳の弘治2年(1556)6月24日付で三河大仙寺俊恵蔵主宛の寺領寄進状並に禁制です。
永禄3年(1560)5月、今川義元が討たれたのを機に、家康(松平元康)公は19歳で岡崎城に復帰しました。何よりも先ず着手しなければならなかったのは、家臣団や族党と間に信頼関係を構築することでした。家臣たちは起請文を呈して主君に忠誠を誓い、主君である家康公はこれに応えて既得権益を保証する知行安堵状・宛行状、誓書・覚書などを与えました。この青年期に発給された文書の大半は、右筆の手になるものではなく、家康公自らの筆によるものです。
 天正年間(1573〜91)の前半、家康公は織田信長と盟を結んで駿遠三の三ヶ国を領するに至り、後半は甲信二ヶ国を加えて豊臣秀吉と競り合いつつその麾下筆頭となり、関東六ヶ国を領する大々名へと成長しました。当然家臣も増えて発給する文書も増加し、その大半は右筆や奉行の手に委ねられるところとなりましたが、一方でいわゆる消息体の書風の私文書が現れ始めます。多くは仮名の多い速筆で、晩年の定家を倣った書風の基礎がこの時期に築かれたと看取されます。
 次期政権担当者としての地歩を築いた文禄元年(1592)から慶長3年(1598)に至る7年間は、遺墨の書風も試行錯誤を繰り返した過渡期と見られます。関ヶ原の合戦を経て、政権を掌握した後、家康公の書は、定家様を思わせる仮名文字主体の書風となり、人間像を彷彿とさせる大らかな運筆です。
 「書は人なり」ともいいますが、ここに展示した家康公自筆の文書や絵画を通して、その教養や学問、新たな人間像を感じて頂ければ幸いです。

展 示 品 目 録
「松平元康判物 牧野正重宛(永禄4年5月28日)」 
「松平家康判物 牧野正重宛(永禄9年5月9日)」
「徳川家康黒印状 長束正家・山中長俊・木下吉隆宛」
「徳川家康筆 年貢皆済状(慶長11年3月12日)」
「徳川家康筆 金子覚書」
「徳川家康筆 消息 秀忠夫人浅井氏宛」
「徳川家康筆 大黒天図」 
「伝徳川家康筆 岩上小禽図」

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