【過去の特別展】

【お陰様で好評の内に終了いたしました。】



 第119回企画展 「幕末の日光山」

平成18年10月13日(金)平成18年12月6日(水)

  江戸から明治にかけて、日光山輪王寺・東叡山寛永寺(上野)・比叡山延暦寺の三山を統括していたのが、出家した天皇家子息『輪王寺宮』と呼ばれる方々でした。この輪王寺宮は、親王を自分の後継者として迎え、天台宗の統括を図るという天海大僧正の遺言により実現したものです。そうして55世門主として天皇家より守澄法親王が迎えられ、輪王寺宮はその後明治時代まで13代続くこととなりました。特に13代目、最後の輪王寺宮は幕末から明治にかけて起こった社会の混乱の中務められました。幕末の日本、そして日光ではどのような事が起こったのでしょうか。
 安政元年(1854)、アメリカを筆頭とする対外的圧迫のもとで、日本は日米和親条約を結んで開国しました。その後さらに通商条約の締結を強要され、幕府はこれに調印しようと、朝廷に裁許を求めますが、朝廷からは調印拒否の態度をとられ勅許を得られないまま、安政5年(1858)、日本はアメリカと日米修好通商条約を締結しました。この頃日光山では、異国船の来航に伴い、江戸からの要請で世上静謐の祈祷が行われました。その後も幾度か国土安穏などの祈祷が行われています。
 慶応3年(1867)、大政奉還により徳川幕府は朝廷に政権を移譲、日光山にも倒幕運動の波が押し寄せ、旧幕府軍や新政府軍が足を踏み入れ始めます。明治元年(1868)、鳥羽・伏見の戦いをきっかけに戊辰戦争が始まりました。輪王寺門跡である輪王寺宮公現法親王は旧幕府軍側とみなされ、一時東北へと逃れますが、旧幕府軍の降伏により、その後京都で謹慎させられます。明治3年(1870)、公現法親王は復飾(還俗)され名を北白川能久と復し、輪王寺宮は断絶しました。
 日光においても明治4年(1871)、神仏分離発令により、寺社が分離され「輪王寺」号は廃止、旧名の「満願寺」を名乗ることを余儀なくされます。朝廷の敵とみなされた東照宮の存続か廃絶かも検討されていました。各御堂の移転も迫られていましたが、日光町民から移転阻止運動が起こるなど、日光は騒然となります。明治9年(1876)、明治天皇が東北御巡幸の際日光へ立ち寄られ、輪王寺に宿泊されました。現状をご覧になられ、「旧観を失う事なかれ」の一声と御手元金を下賜いただいた事により、日光山の堂社は破壊を免れます。明治16年(1883)、皇室縁故寺院として輪王寺門跡の称号が復活し、現在に至ります。



展示品のご紹介

※ 出陳展示什宝は、予告なく変更する場合があります。



【重要文化財】
とうしょうごんげんぞう
東照権現像
(輪王寺蔵)

ほんしょういんみやおみえ
本照院宮御影
(輪王寺蔵) 

かつかいしゅうしょせき
勝海舟書跡
(輪王寺蔵)

つぼがたきりん ちゅうこうろ

壺型麒麟紐香炉
(輪王寺蔵)
上記を含め、約60件の什宝を展示しております。
詳しくはお問い合せ下さい。 
電話 0288−54−0531


コ川記念財団常設展示
ご あ い さ つ 

〜コ川記念財団 常設展示にあたって〜
コ川宗家 第十八代当主
(財)コ川記念財団   
理事長 コ 川 恒 孝
 江戸幕府開府400年に当たる平成15年(2003)4月に、多くの方々から御支援を頂いて、財団法人コ川記念財団を設立いたしました。

 コ川宗家(将軍家)伝来の歴史資料を保存、管理するとともに調査研究し、公開することを目的として設立した財団の常設展示を、コ川家と関係の深い日光の地でできますことは、大変喜ばしく思います。

 季節ごとにテーマを決めて、日光山輪王寺宝物殿の所蔵品とともに、コ川記念財団の所蔵品を一堂に展示することで、江戸幕府にとって日光が果たした役割や意味を、改めて考えるきっかけとなれば幸いです。

御台所の嗜み
−十三代将軍夫人天璋院の和歌・香道−
 天璋院は、天保六年(1835)薩摩藩主島津の子、今和泉領主島津忠剛の長女に生れり実十三代将軍徳川家定公の正室となった方で、幼名を一子、長じて敬子といい、篤姫、篤君と呼ばれました。
安政三年(1856)薩摩藩主島津斉彬の養女(幕府への届けは実子)となり、さらに右大臣近衛忠煕の養女として、幕末の動乱期に21歳で、十三代将軍家定のもとに入輿し、御台所となりました。
 将軍継嗣問題、違勅調印など、内憂外患が続く時局多難の同五年(1858)七月、僅か二年で夫君家定公が35歳で逝去すると、落飾して天璋院の号を得て、従三位に叙せられ、大奥の取締りにあたりました。
 朝幕関係をめぐる幕末の激動期、天璋院の故国薩摩が重要な役割を演じ、公武合体から次第に反幕への路線を強め、ついには討幕軍の中心になるという悲運に見まわれましたが、天璋院は毅然とした態度で、十四代将軍夫人静寛院宮とともに徳川家救解を嘆願し、家名保全と江戸総攻撃回避に貢献しました。さらに明治維新以後は、宗家を相続した十六代家達公の訓育に専念し、徳川宗家再興に尽力しました。

 このような動乱の時代に、江戸城大奥で十三代将軍夫人として、天璋院が和歌や香道にいそしんだことをうかがえる資料が徳川宗家に伝来しています。
 今回は、美しい料紙に流麗な筆致でかかれた和歌や香道の記録などを展示し、御台所の教養と嗜みについて、お感じいただければと思います。
展 示 品 目 録
「婿引出」延寿刀鍔・雲次刀鍔
和歌ちかいの文
安政五年 御稽古月次和歌題
和歌懐紙「浅き手に」
和歌懐紙「千世かけて」
和歌懐紙「春の色に」
和歌懐紙「つたへ聞」
和歌短冊「秋懐旧」
和歌短冊(刺繍)
烟競香札
小鳥香之記
十 香之記
天章院自筆稿本「熱海箱根湯治日記」


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