【過去の企画展】 【お陰様で好評裡に終了いたしました。】
| 第141回 特別企画展 天海大僧正展−4 |
平成23年10月7日(金)〜12月12日(月)
天海大僧正(てんかいだいそうじよう)は、初代家(いえ)康(やす)公から秀(ひで)忠(ただ)公、家(いえ)光(みつ)公まで三代の将軍の相談役として、徳川将軍を頂点とした幕藩体制の基礎作りに大きな役割を果たした天台僧です。
陸奥(むつ)国、大沼郡高田(=福島県会津美里町)の豪族芦名(あしな)氏に生まれたと伝えられ、11歳の時、黒川稲荷堂(くろかわいなりどう・会津若松市)にて得度(とくど)し随風(ずいふう)と名乗りました。その後、遊学の途にのぼり、粉川寺(こかわでら・栃木県宇都宮市)、三井(みい)寺(でら)、興福寺(こうふくじ)、足利学校などで学んだ後、芦名盛氏(もりうじ)の求めに応じ黒川稲荷堂の別当として15年を過ごします。
天正18年(1590)年、僧正豪海(ごうかい)のもと星野山 無量寿寺(むりようじゅじ・埼玉県川越市)(=喜多院(きたいん))に入り名を天海(てんかい)と改め、翌年には芦名盛重(もりしげ)の請願により常陸国河内郡江戸崎不動院(ふどういん・茨城県稲敷市)を修営し、慶長4年(1599)には、北院(きたいん=喜多院)豪海の入寂により第27世の法統を継ぎます。慶長14年(1609)には権僧正を、同16年には僧正に任じられ、また後陽成上皇(ごようぜいじょうこう)より毘沙門堂門室を賜わります。
慶長18年(1613)、家康公により第53世・日光山貫主(かんす)に任じられると、久しく絶えていた日光山本坊の光明院(こうみょういん)を再興させ、元和2年(1616)家康公の薨去にあたっては、遺命により一年後に御遺骸を久能山(くのうざん)から日光山へ移遷し、東照大権現として勧請しました。その後、日光山において中世より信仰される日光三所権現に加え、新に東照権現と山王権現(さんのうごんげん)、摩多羅神(またらじん)をあわせた東照三所権現信仰を普及させ、全国に東照宮を勧請するなど、徳川将軍による太平の世創造に力を尽くします。寛永20年(1643)年、108歳で逝去されるまで、将軍・幕府の精神的支柱として欠くべからざる存在であり続けました。
260年余り、平和の下に日本独自の文化を築き、長い繁栄を続けた江戸時代。「東に照る神」として家康公が日光山に鎮座されたことにより、戦国の世以降疲弊していた日光は蘇(よみがえ)り、その後も聖地として発展し続けました。今でも、天海大僧正が整えた教義・伝統は日光山のいたる所に遺されています。
家光公の廟所である大猷院(たいゆういん)に程近い大黒山(だいこくやま)の慈眼堂(じげんどう)に眠る天海大僧正。日光をお参りする皆様に、当山中興の祖である天海大僧正が、世界史的にも希な太平の世を構築するに果たした役割を感じて頂ければ幸いです。
日光山 輪王寺
し じょう こう まん だ ら
【熾盛光曼荼羅】
(今期 特別展示)
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3月11日発生の東日本大震災、巨大津波、それに伴う原発の事故、度重なる台風と、今年ほど天変地異による災害、或いは人災が日本を襲った年は近年ありません。
熾盛光曼荼羅(しじょうこうまんだら)を用いる熾盛光法は、天変地異を鎮める祈祷を目的とした修法で、古来より比叡山(ひえいざん)に伝わっております。
風雨が順調に訪れますよう、穀物がよく育ちますよう、万民が豊かで幸せでありますよう、玉体(天皇陛下)が安穏でありますよう、天下が乱されませんようにと祈るための曼荼羅図であるといいます。
曼荼羅図の中には命が溢れています。命と命は互いに関わりあって生きています。いかなる災難に遭っても、どんな逆境の中でも、命そのものは生きようとします。曼荼羅図の中は、 生きようとする命の輝きに満ちています。日光山 輪王寺
展示品のご紹介 ※ 予告なく変更する場合があります |
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![]() 舞楽図屏風 (左隻) 日光山輪王寺 蔵 |
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![]() 胎蔵界 曼荼羅 日光山輪王寺 蔵 |
![]() 金剛界 曼荼羅 日光山輪王寺 蔵 |
![]() 薬師十二神将 日光山輪王寺 蔵 |
![]() 慈眼大師御像 (持中啓) 日光山輪王寺 蔵 |
![]() 舞楽図屏風 (右隻) 日光山輪王寺 蔵 |
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上記を含め、約60件の什宝を展示しております。 |
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| コ川記念財団常設展示 |
ご あ い さ つ
〜コ川記念財団 常設展示にあたって〜
コ川宗家 第十八代当主
(財)コ川記念財団
理事長 コ 川 恒 孝
江戸幕府開府400年に当たる平成15年(2003)4月に、多くの方々から御支援を頂いて、財団法人コ川記念財団を設立いたしました。
コ川宗家(将軍家)伝来の歴史資料を保存、管理するとともに調査研究し、公開することを目的として設立した財団の常設展示を、コ川家と関係の深い日光の地でできますことは、大変喜ばしく思います。
季節ごとにテーマを決めて、日光山輪王寺宝物殿の所蔵品とともに、コ川記念財団の所蔵品を一堂に展示することで、江戸幕府にとって日光が果たした役割や意味を、改めて考えるきっかけとなれば幸いです。
| 天璋院篤姫と近衛家 |
13代将軍徳川家定の御台所である姫姫(あつひめ・天璋院てんしょういん)は、天保6年(1835)12月19日に薩摩藩主島津家の一門である今和泉島津家で誕生しました(幼名:一子・於一おかつ)。薩摩藩は将軍家との縁も深く、11代将軍家斉の御台所 広大台院(こうだいいん)は島津家の出身でした。将軍の御台所は宮家・五摂家から迎えることが通例となっていましたが、嘉永3年(1850)に12代将軍家慶の世子家祥(いえさき・後の家定)の継室選びが開始されると、家斉の婚姻を先例とし、島津家に縁組みの話が持ち上がります。当時、島津家には年頃の娘がなく、島津家28代当主 斉彬(なりあきら)は分家の一子を養女とし(幕府へは実子と届出)、家祥の御台所とすべく調整を進めていきます。
嘉永6年8月、篤姫と名を改めた一子は江戸へ向かいます。しかし、時代は風雲急を告げ、同年6月のペリー来航以降、国内情勢は大きく揺れ始め、篤姫の婚姻は困難を極めることとなります。薩摩を発ってから3年余りが経過した安政3年(1856)2月、ようやく縁組みの内定を受け、篤姫は出自を整えるための近衛忠熙(このえ ただひろ)養女となり、敬子(すみこ)と改称します。そして同年12月、22歳の折に家定との婚儀が執り行われました。
家定と篤姫の仲は良好であったと伝えられますが、結婚後わずか1年7ヶ月で家定が逝去し、篤姫は天璋院と号します。その後、紀州徳川家から入った家茂が14代将軍となりますが、幕政は悪化の一途をたどり、慶応3年(1867)に大政奉還を迎えます。さらに翌年の鳥羽・伏見の敗戦後、自身の実家である薩摩藩を中核とする新政府軍が江戸へ進撃し、篤姫は実家と婚家の間に立たされることになります。しかし、篤姫はあくまでも徳川家の人間として毅然とした態度を取り、静寛院宮(せいかんいんのみや・家茂御台所、和宮)と共に身命を賭して江戸総攻撃回避と徳川家の存続に尽力しました。
このたびの展示では篤姫と近衛家に焦点を当て、それぞれゆかりの品をご紹介します。御台所となるために近衛家の養女となった篤姫は、御台所にふさわしい教養を身につけるため、和歌や茶道、香道だけでなく、近衛家の歴史についても熱心に学んでいました。そのひたむきな姿勢は遺された記録や諸道具から窺い知ることができます。ここに展示する品々を通し、激動の時代に翻弄されながらも自身の立場と責任を全うした篤姫の姿の一端を感じていただければ幸いです。
平成23年10月
公益財団法人 コ 川 記 念 財 団
(財)コ川記念財団 http://www.tokugawa.ne.jp 〒151-0064 東京都渋谷区上原2-35-5-203 TEL03-5790-1110・2620 日光山輪王寺宝物殿(栃木県日光市)と久能山東照宮博物館(静岡県静岡市)の2館で、 コ川記念財団の常設展示を行っています。 機会がありましたら、久能山東照宮へもお出かけ下さい。 |
![]() 久能山 東照宮 博物館 http://www.toshogu.or.jp 〒422-8011 静岡市駿河区根古屋390 TEL054-237-2437 徳川家康の遺品や歴代将軍の甲冑などを展示しています。 【開館時間】 午前9時〜午後5時 【休館日】 年中無休 【交通機関】 東名静岡または清水I.Cより日本平まで約20分 JR静岡駅よりしずてつバス「日本平行き」 【駐 車 場】 日本平駐車場200台を利用(無料) 〔日本平〕よりロープウェイにて5分 久能山東照宮博物館でも、コ川記念財団の常設展示を行っております。 9月23日(金)〜11月25日(金) 「 徳川家と宮家 」 ※ 展示内容・展示期間は、予告なく変更する場合があります。詳しくは電話にてお問い合せ下さい。 |