【過去の特別展】

【お陰様で好評の内に終了いたしました】


江戸と日光 [ 江戸開府400年記念 ]Z
『 江戸時代の日光山内 』 展


平成16年3月10日(水)4月25日(日)

日光山内の様子

 平成15 年(西暦2003 年)は、江戸に幕府が開かれて400年という年に当たります。江戸幕府にとって、当地日光が果たした役割、意味とはいったい何だったのでしょう。
 奈良時代、勝道上人(しょうどうしょうにん)によって開かれた日光山には、昔から多くの僧、修験者達が、院・坊に住まい、一大組織を運営してきました。
 一山
(いっさん)と呼ばれるこれらの組織は、時代により盛衰を繰り返し、仏教・山岳修験(しゅげん)・神道(しんとう)が同居して信仰される神仏習合(しゅうごう)の霊地であったのです。江戸時代になり、徳川家康公が東照大権現(だいごんげん)としてこの地に祀(まつ)られると、日光山内の様子は大きく変化します。中世、金堂と共に日光山の中心であった常行堂・法華堂が、東照宮の鎮座により移動され、豊臣秀吉の時代に疲弊した山内も、当山第53世貫主天海大僧正により整備、再構築されます。かつての場所から移築された堂社は新しく整えられ山内の面目は一新しました。
 江戸の鎮守、将軍家祖廟(東照宮)が鎮座し、法親王宮(
ほうしんのうのみや=出家した皇子)様が治め、将軍が社参に来る日光山は、江戸時代大いに栄え、参詣する人々の数も次第に多くなりました。それらお参りする人たちへの案内として、刊行された山内図が御山之絵図として残される地図です。これらは当時の様子を良く伝えています。それぞれの堂社配置を比べると、日光山の変遷をうかがうことができます。
 その山内も近代に入り、明治4年に発令された神仏分離令により、寺院と神社に余儀無く分割され、現在のような体制となり、形態が大きく変えられました。

 昨年から引き続き、コ川記念財団からの寄託展示品も交え、江戸時代の日光山がどのようなものだったかご紹介したいと思います。
おもな展示品



天海大僧正・家康公・家光公 御影
(板絵)





日光東照宮総絵図
【コ川記念財団・蔵】





にっこうさんじょごんげんぞう
日光三所権現像







【栃木県指定有形文化財】
あみだにょらいぞう
阿弥陀如来像
【円空・作】


日光山御山之絵図



※ 出陳展示什宝は、予告なく変更する場合があります。

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