【過去の特別展】

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江戸と日光 [ 江戸開府400年記念 ]W
『 天海大僧正 と 日光 』 展


平成15年  9月5日(金)〜11月11日(火)

日光とは

 今年、平成15 年(西暦2003 年)は、江戸に幕府が開かれて400年という年に当たります。江戸幕府にとって、当地日光が果たした役割、意味とはいったい何だったのでしょう。

 徳川家康公を日光に東照大権現(とうしょうだいぎんげん)として祀(まつ)り、江戸を護る一大霊場として隆盛の極みに導いたのが、当山第53世貫主(かんす)天海(てんかい)大僧正です。家康公・秀忠公・家光公、三代にわたる徳川将軍から生き仏のように崇められた天海は、並はずれた才能を持つ卓越した天台僧でした。

 同時期に活躍した金地院崇伝(こんちいんすうでん)が黒衣の宰相と呼ばれたのに対し、比叡山南光坊に住したので南光坊天海とも呼ばれ、その活動は宗教方面に限られていました。

 慶長18年(1613)、家康公より日光山貫主を拝命すると、本坊・光明院(こうみょういん)を再興し、関東における天台宗の基盤とすべく日光山の整備に努めました。また、その宗教観は家康に強い影響を与え、天海が初めて家康公に会って以来、幾度となく家康公の為に論議[問答議論によってお経の意味を明らかにする儀式]を開き、また、幾度も家康公に天台の教えを授けています。公が薨(こう)じる前年には、山王一実神道(さんのういちじつしんとう)の伝授もありました。天台の神道であるこの教えに基づき、家康公の御遺骸は久能山から日光山へ遷葬、東照大権現として当地に祀られたのです。「(日光にて)関八州の鎮守(ちんじゅ)とならん」との家康公の御遺言どおり、日光山は、京都における比叡山のように、徳川家の或いは徳川幕府の鎮守となったのです。

 その後も、108歳の長寿といわれる天海大僧正は、寛永16年(1639)、家光公に山王一実神道を相承、寛永8年(1631)、寛永17年(1640)の東照大権現17回忌、25回忌の導師、寛永19年(1642)には日光東照宮で法華曼荼羅供の導師を勤めるなど、寛永20年(1643)10月2日、東叡山寛永寺にて入寂される直前まで精力的に宗教活動を続けました。5年後、慈眼大師の諡号を賜い、朝廷から賜る大師号としては史上最後の日本で7番目のお大師様となりました。

 慶安元年(1648)4月20日、東照大権現33回忌には将軍家光公の日光社参がありました。その際将軍は、天海の廟所[墓所]である慈眼堂にも参拝されています。また、寛永寺慈眼堂にて天海7回忌が奉修された際も出席されたり、家光公の天海を慕う気持ちを窺うことができます。慶安4年(1651)4月20日、家光公は死去の際、遺言の通り、祖父家康公と天海大僧正の側近くに、大猷院殿として葬られました。すなわち、現在日光山には家康公、家光公、天海僧正の廟所(びょうしょ)があり、今尚、参詣の人々が絶えないのです。

おもな展示品
出陳展示什宝は予告なく変更することがあります

文殊菩薩像


如意輪観音菩薩像


家康・家光・天海 御影額


慈眼大師画像


東照権現像
【重要文化財】


天海大僧正 御遺訓


住之江絵巻蒔絵硯箱
【重要文化財】
(天海大僧正所持)

天海大僧正略年表
和暦 西暦 記事
天文 5年 1536 天海、会津高田に生まれる。
天文18年 1549 天海、下野国宇都宮粉河寺皇舜僧正に学ぶ。
天文22年

慶長13年
1553

1608
天海、比叡山、興福寺(奈良)、足利学校(下野)、
無量寿寺(後の川越喜多院)、などに学び、或いは住持を勤める。
慶長18年 1613 家康公、天海を日光山第53世貫主に任じる。
天海、後陽成上皇に天台の血脈を相伝、
御衣・燕尾帽・鳩杖を賜う。家康公に山王一実神道を授ける。
元和 2年 1616 コ川家康公、駿府にて逝去。
天海、大僧正に任じられる。
元和 3年 1617 東照大権現号の勅賜。
御遺骸を久能山から日光に遷葬、東照社を造立。
元和 7年 1621 天海、日光山本坊光明院を再興。
寛永13年 1636 家光公により、東照社の大造替なる。
寛永20年 1643 天海、上野東叡山にて入寂。
正保 2年 1645 東照社に宮号勅賜、東照宮となる。
沢庵宗彭、入寂
慶安元年 1648 天海に慈眼大師の諡号勅賜あり。
天海版一切経、開版される。
慶安 4年 1651 家光公逝去。大猷院正一位大相国の諡勅賜。
承応 2年 1653 家光公廟大猷院、落成。

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