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江戸と日光 [ 江戸開府400年記念 ]V
『 徳川家 の 聖地となった日光 』 展
平成15年 7月10日(木)〜9月3日(水)
日光とは
今年、平成15 年(西暦2003 年)は、江戸に幕府が開かれて400年という年に当たります。江戸幕府にとって、当地日光が果たした役割、意味とはいったい何だったのでしょう。
日光とは一体どのような土地でしょう。江戸時代、徳川家康公が東照大権現(とうしょうだいごんげん)として祀られると徳川家の祖廟として、日光の繁栄は頂点を極めます。{江戸幕府の開祖を祀る地=江戸幕府の宗教的拠り所}として、日光が選ばれたのはなぜでしょう。
日本に仏教が正式に伝えられたのは6世紀半ばのこと。8世紀には、最澄・空海がそれぞれ天台宗と真言宗を開きます。同じ頃、活躍したとされるのが、当山開山の祖である勝道上人(しょうどうしょうにん)です。上人は大谷川(だいやがわ)の畔に四本龍寺(しほんりゅうじ)を建てました。当日光山の始まりです。上人はその後も修行を重ね、ついには二荒山(ふたらさん=男体山)登頂を極めます。当寺の宗教は、大陸伝来の仏教と、日本古来の神道が融合したもの、仏と神が一体として信仰される神仏習合思想が、日本の宗教形態として自然に受け入れられていました。仏と神は同体であり、日本における仏の姿が神であるという捉え方(本地垂迹説)が唱えられたのです。山岳修験の道場として、また神仏習合の一大霊場として、中世を通し霊場としての地位を固めた日光山。豊臣秀吉に憎まれ、一時は疲弊しますが、その後、徳川幕府の霊地として復活するのです。
当山第53世貫主である天海(てんかい)大僧正は、家康公・秀忠公・家光公三代の将軍から崇められた天台僧です。家康公の信仰篤かった天海は、天台宗の秘法、山王一実神道(さんのういちじつしんとう)によって家康公を神にしました。西の京都と肩を並べる東の都を築き上げる野心を持って、江戸に幕府を開いた家康公。東照大権現という名が示すのは、「東に照り輝く仏が権りに神として現れた姿」という意味です。神仏習合思想により、東方薬師瑠璃光如来(とうほうやくしるりこうにょらい)を本地、東照大権現を垂迹(すいじゃく)とした、人智を越えた存在になったのです。「関八州の鎮守とならん」と遺言した家康公の本意は、比叡山延暦寺が京の都を守護した様に、江戸の北に位置する日光に自らの廟所を建て、自らが神となり、江戸幕府の宗教的要として日光という土地から東の都=江戸を護ろうとしたのです。そこには、徳川幕府が、西の朝廷と同等、或いはそれ以上になるようにという強い意志がみえるようです。
| おもな展示品 | |
![]() 【 国 宝 】 だいはつねはんぎょうしゅうげ 『大般涅槃経集解』 涅槃経の解説書であるこの経釈書は全71巻、内、巻第11から第69までが伝えられ、国宝に指定されています。43巻は奈良時代の書写で、16巻は平安時代の書写です。天海僧正の所蔵書籍として、当寺に伝来しています。 |
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![]() 【重要文化財】 とうしょうごんげんぞう 東照権現像 徳川家康公は、戦国時代を生き抜き、天下泰平の世を築き、江戸幕府を開いたのち、日光の地に神として祀られました。 |
![]() 薬師如来像 仏教の仏を本地とし、神道の神を垂迹とする本地垂迹説。家康公の本地仏は、東に浄土があるという薬師如来です。東照宮(神社)に薬師堂(鳴き龍)があり、本地堂とも呼ばれています。 |
![]() ししゅう うちしき 刺繍 内敷 (家康公より天海拝領) 天海大僧正が家康公より頂戴したと伝えられる敷物です。 |
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![]() 日光山縁起 日光の開山は、実に奈良時代に遡ります。大谷川の激流を渡り、庵を建てた勝道上人の偉業は、空海の詩文集「性霊集」巻二に、「沙門勝道歴山水瑩玄珠碑并序」として載せられています。 |
![]() 【栃木県指定有形文化財】 ほうのうめん からすてんぐ 奉納面 烏天狗 裏面に彫りつけられた銘文から、天和2年(1682)三番禅頂の折りに奉納されたものであることがわかります。禅頂とは、霊山に登り修行をすることですが、日光の禅頂は、三峰五禅頂といい、春峰、夏峰、冬峰のルートがあり、秋峰に五禅頂を定め、中世、盛んに行われました。 |
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