【過去の特別展】

【お陰様で好評の内に終了いたしました】


江戸と日光 [ 江戸開府400年記念 ]U
『 徳 川 家 と 日 光 門 跡 』 展


平成15年 5月16日(金)〜7月8日(火)

【 日 光 門 跡 】

 今年、平成15 年(西暦2003 年)は、江戸に幕府が開かれて400年という年に当たります。江戸幕府にとって、当地日光が果たした役割、意味とはいったい何だったのでしょう。

 徳川家康公を東照大権現(
とうしょうだいごんげん=東に照り輝く神)として祀ったのは、日光山(奈良朝の開山)第53世貫主(かんす=大寺の住職)であった天海(てんかい)大僧正です。西の朝廷に対し、東の徳川幕府が日本を治めんとする強い意志の表れです。神君家康公を祀る日光山の貫主として、鎌倉時代より途絶えていた皇族の住職を復活させることは、天海僧正の願望の一つでもありました。存命中にこそ果たされませんでしたが、天海僧正の後を継いだ54世貫主公海僧正の後、後水尾(ごみずのお)天皇の第3皇子である守澄法親王(しゅちょうほうしんのう)が第55世として日光山を治めることになりました。日光門跡(もんぜき)の始まりです。門跡とは、皇族・貴族などが出家して入室する特定の寺院のことで、寺院の格をもあらわしています。輪王寺では、明治時代に至るまでおよそ250年、13代の宮様(再任があるため、実質12名です)が、輪王寺宮(りんのうじのみや)としてこの寺を治めていました。

 輪王寺宮は、平常上野の寛永寺
(かんえいじ)にお住まいになり、日光山を統治し、ほとんどの方が天台座主(てんだいざす)も務められましたので、上野寛永寺の東叡山(とうえいざん)、日光山輪王寺、天台宗の本山比叡山(ひえいざん)を治める「三山管領宮(さんざんかんりょうのみや)」と敬われました。江戸の庶民は、将軍様のお膝元で、輪王寺の宮様の住まう江戸の町に暮らすことを、誇りにしていました。

 日頃江戸にお住まいの宮様でしたが、日光で行われる御忌法要
(おんきほうよう)やその他数々の法会(ほうえ)・祭祀(さいし)の折りには、江戸より日光にお出ましになられ、こちらで過ごされました。現在、宝物殿が建てられております場所は、法親王の宮様が在晃中にお住まいなさる輪王寺本坊(ほんぼう)があった場所です。逍遥園(しょうようえん)庭は、故郷を遠く離れた宮様のお心を慰めるように、琵琶湖を模した池が造られています。当時は現在と異なり、輪王寺と二荒山(ふたらさん)神社、東照宮、つまり大陸伝来の仏教と、日本古来の神道(しんとう)が渾然一体(こんぜんいったい)となり、神仏習合(しんぶつしゅうごう)の霊地として信仰されていました。すなわち、宮様の日光御統治は日光山全山に亘(わた)るもので、輪王寺本堂(三仏堂さんぶつどう)での法会も、二荒山神社・東照宮での祭礼(さいれい)も、総て法親王が取り仕切っていました。日光の庶民にとってもまた、宮様が治め、将軍が度々お参りに来る尊い聖地に暮らすことは誇りだったのです。
おもな展示品


【重要文化財】
とうしょうごんげんのりと
『東照権現祝詞』
(伝 春日局筆)




しゅちょうほうしんのう みえい
『守澄法親王』御影
(本照院宮)


じげんだいし てんかいだいそうじょう ぞう
『慈眼大師 天海大僧正



あじろがさ
『網代笠』
しゅんにんほうしんのう ごしょよう
   
舜仁法親王/御所用


てんじんほうしんのう ひつ ふもんぼん
天真法親王 筆『普門品」』

※ 出陳展示什宝は、予告なく変更する場合があります。

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