日光山輪王寺

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法話

布 施(ふせ)

布 施(ふせ)

輪王寺 総務部長

鈴木常元

 

 『お布施』というと、『お葬式や法事でお坊さんがお経を上げてくれたお礼にわたすもの』のように思われている。だから、裏の台所あたりで「そんなに出すことないよ、もっと減らそうよ」とか「隣は○○円だったらしいから、それより少ないと恥ずかしいよ」とか言ったりする。

 けれども布施というのは、本当は私たちがほとけ様に近づいて行くためにする大切な修行のひとつ。具体的には、他者に施すこと。

 

 施すというけれど、お金持ちが貧しい人に、強い者が弱い者に、大人が子供に、ということではない。もちろんそれもあるのだけれど、布施は誰にだってできる。

 なにもお金や物を与えることだけが布施ではない。たとえ無一文だって、住む家がなくたって、仕事がなくたって、病人だって、寝たきりだって、赤ん坊にだって、布施はできる。元手も何もいらない。

 

 たとえば、優しい眼差し、穏やかな表情、素直な言葉などは立派な布施。バスや電車で席をゆずることができる。力持ちなら重い荷物を持ってあげことが出来る。

 赤ん坊が笑う、すると周りの人が微笑む、これも周りの人を笑顔にする見事な布施。

 あれこれ仕事もあるくせに、自分のことは後にする。自分の時間を他人のために使うなんて、すばらしい布施。

 

 何するにせよ、布施というのは自分のためではなく、誰かのためにすること。しかも「してあげる」のではなく「させていただく」のが布施の精神。

 「してあげた」と思ってしまうと、相手に何かを期待してしまう。少なくともお礼の言葉くらいはあってもいいんじゃないかと思ったりしてしまう。

 

 布施は『やりっぱなし』。たとえ相手からの感謝の気持ちが見えなくても、お礼やお返しがなくても、施したものを粗末にされたとしても気にしない。赤ん坊なんて、周りを笑顔にしておいて、何の見返りも要求しない。

 

 お返しなんか期待したら、それは布施ではなくなる。

 でも、されたほうは、やっぱり「ありがとう」「ごちそうさま」と言おう。それが、その素直な言葉が、そのときの表情が、そのまま布施になるのだから。

 

 そして、できれば、誰かが布施をしてくれたら、それを、その人ではない違う誰かに返そう。言葉や表情で構わないから。

 そうすれば、世界中に布施の心が広がってゆく。

 そして、そして、今の自分が、どれだけ多くの布施を受けているのか、どれだけ多くの布施によって生かされているのかに気づこう。

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