日光山輪王寺

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法話

                     

                                                     輪王寺宝物殿館長

                                                       柴 田 立 史

 

 比叡山に山田恵諦御座主という方がおられました。私の師匠が私淑したお方です。その方の著作集に「花」という短編があります。そこに、

 「茶掛けをたのまれると、私は好んで、「百花為誰開」と書く。誰の言葉か知らないが、これほど心にひびく言葉はない。表面に現れたすべてを受け入れた上で、さらにその奥を探ろうとする尊さがあるからである。

 ー百花、誰がために開く。

 自然の恵みに浴しながら無心に生きる花に、理屈は禁物である。美しいと感じ、綺麗だと喜ぶ、それが花に対するほんとうの愛情ではなかろうか。このゆえに仏教では、「一華開くところ、一仏国土を成ず」と言っている。花を見ていると、いつしか心は世俗を離れて、清らかな中に楽しみが湧き、ほほ笑みさえ浮かんでくる。花を見ていると、そこに仏さまの世界が開けてくるからである。

 花を仏壇に上げるとき、見た目に美しい面を作り、それを自分の方に向ける。仏さまに上げるのに、どうしてそうするのか。花を上げるということは、花を通して、自分の心を仏さまに捧げるのである。自分が崇める仏さまの美しいみ心を、その花によって味わわせていただくためである。

 花の向こうに仏さまが立っておられる。その仏さまとお花が一つになったとき、花の美しさは十倍にも百倍にもなって、人間の心に移り帰るのである。仏も無心、花も無心、拝む心も無心になったとき、花即仏心、仏心即花となって、百倍も千倍もの美しさが表れるのである。

 「見る人の心ごころに開く花」

  私は長らく、どうして仏様へ上げるお花なのに、拝む自分の方に綺麗な面を向けるのだろうか、という小さな疑問は思いながら過ごしていました。「仏様も、花も、自分の拝む心も無心」となれるように、という解説は思い至りませんでした。お花の向きを仏様の方にむけていたら、仏様に向けてあげたんだからねと、いかにも私がやってあげてるんだからねとなってしまうだけです。それが、仏様も、花も無心でいて、拝む私達をその無心の境地へと導いてくださろうとしておられたのだという解説は、深い思いやりが無ければ導き出せないものと思います。そして、どこの家の仏壇の前にもこころやすらげる無心の場所が開かれているのは、とても嬉しいことですよね。

 

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