「中道」ってなに?
輪王寺 執事長 今 井 昌 英
このところ「中道(ちゅうどう)」という言葉をよく耳にします。実はこの「中道」、元々は仏教の言葉です。ところが巷に流れる「中道」は、どうもそれとは少々意味を間違えて使われているような気がするのです。
中道とは「中の道」と書くことから、一休さんの『「この《はし》をとおるべからず」と書かれた看板を見て「端(はし)がダメなら真ん中を通りましょう」と堂々と橋の真ん中を渡った』という、有名な「とんち話」を思い出す方が居られるかもしれません。
右と左、天と地、表と裏、明と暗、プラスとマイナスという具合に、事象は常に対(つい)を成しています。もう少し考えを広げると「開発か、自然保護か?」「前進か、後退か?」「戦争か、平和か?」と、この世ではしばしば矛盾に満ちた二者択一に迫られます。では、この二律背反を、私たちはどう乗り越えたらよいのでしょう?
それは単に「何となくどちらにも偏らず、真ん中へんにいればよい」というような生やさしいことではないのです。すなわち、反対側の立場を否定したり排除しようとせず、それぞれお互いの立場になって、より深く相手を理解するように努力することで、問題の全体像がより広く、本質がより正しく見えきて、ついには思いもよらぬ新たな第三の道「中道」が開けますよ、ということなのです。言い換えれば、対極を無限大まで広げていけば絶対的な中心が現れてくる。それが仏教で言うところの本来の「中道」の捉え方です。
このことを、今から約1,500年前の中国の高僧、天台大師「智顗(ちぎ)」は、「空・仮・中(くう・げ・ちゅう)の三諦円融(さんだいえんにゅう)」という言葉で言い表しました。「三諦」とは、全ての存在は固定した実体を持たないという「空諦」、それに反して現実世界では(仮にではあるが)因縁によって確かに存在するという「仮諦」、そして、空と仮のどちらにも偏らない真実の在り方である「中諦」、この三つの立場それぞれから平等に見ることを「円融」とします。その実践こそがすなわち「中道」なのです。
先ほどの一休禅師のお話も、この三諦円融を暗に説いているのかも知れない、と気付くと、それが単なる「とんち話」にとどまらない深い教えに見えてきます。
現実世界は常に矛盾した二律背反に溢れています。本来の意味での「中道」の正しい実践によって、世の中が少しでも良い方向に変わって行って欲しい、と願うばかりの今日この頃なのです。