2026年03月01日お知らせ
「見る」と「観(み)られる」
輪王寺 教化部長 鈴 木 常 元
人は歳を重ねたり社会的地位が上がると、根拠もなく、自分は「見る」立場なのだと思い込んでしまいがちだ。特に管理職などになると、自分では部下を見ているつもりになり、個々の長所や短所を発見したつもりになり、勝手に点数をつけたりして、自分は見る目があるなどと勘違いする。
しかし肝に銘じなければならないのは、部下も上司をよく見ているということ。見ている私は、それ以上に観られている私でもあるのだということ。
私事だが、私の寺は日光の山々が見える場所にある。
「山笑う」「山滴(したた)る」「山装(よそお)う」「山眠る」などと、古来日本人は四季折々、日々移り変わる山の姿を表してきた。
山は季節に応じて姿を変えるだけでなく、見る者の心のありようでもその姿を変える。尊く、神々しく、親しく、冷たく、温かく、優しく、厳しく、懐かしく、恐ろしく、有り難く…。あるときは包み込むように、あるときは拒むように、あるときは大らかな仏様のように、あるときは清冽な神のように、あるときは苦を抜き取る悲母のように、あるときは楽を与える慈父のように、あるときは友のように、あるときは師のように、そしてまたあるときは荒れ狂い侵略する魔軍の如く、山は姿を変えて我々の前に存(あ)る。
そして思う。私は山を見ているが、山も私を観ているのではないかと。私が山に観られているのではないかと。いや、観張られているのではないかと。否、観守られているのではないかと。
我々は常に観られているのだ。「世間の目」などというインチキ臭いものではない、何か大きなものに観張られているのだ。そして、観守られているのだ。